関谷ひさしと吉田竜夫

暑い中、国会図書館に行きました。

先週と今週でマンガ評論誌「ビランジ」のバックナンバー
(在庫なしで入手できなくなってしまった号・・なぜか書籍扱い)や、
元・虫プロのスタッフの回想録が連載中の骨董雑誌「小さな蕾」の
バックナンバー(800円くらいの雑誌だが、掲載ページは毎回8P位)を
閲覧&コピー。

そして以前から気になってた「タツノコプロ」創業者・吉田竜夫さんの
初期イラストが掲載された雑誌を見てきました!
今日は1959年の「少年マガジン」1961年「少年ブック」を。

少年マガジン」に掲載されてたのは、岩田専太郎調のリアルイラストで
他人のマンガ作品の扉絵を描いたり(今では考えられない!)
「怒りのつばさ」という小説の挿絵を描いたりと、
挿絵画家的な活動をされていたようです。

その2年後の「少年ブック」の頃になると、実弟九里一平」さんの描く
マンガ作品「ジュードーボーイ」の構成や手伝いを経て、
マンガ的な作風にシフトしていく過程が見る事ができました。
(挿絵画家からマンガ(劇画)への移行というと
さいとう・たかを先生などのケースも気になります)

ところで、その同じ誌面には関谷ひさし先生のカーレースマンガ
「少年No.1」が1960年1月号よりスタート。
その後、吉田先生は「マッハGoGo」の原型的マンガ「パイロットA」を
「少年画報」に1960年11月よりスタートさせています。

関谷先生としては、自分より遅れてはじまった作品が
のちアニメでヒットし、海外でも人気になったという事実は
かなり重かったのではないか?と推測するのですが・・
当時、関谷先生がタツノコに抗議したというのも頷ける話です。

その両者の作品がマンガショップで読めるのはありがたいですが、
作品単体で見るだけでなく、発表時期の流れを見る事で色んな発見が
ありそうです。